建築・アートの所感ノート

建築とアートの作品、展覧会、書籍などの感想を共有します。

森美術館 村上隆の五百羅漢図 展:トークセッション「日本、物語、リアリズム」アカデミーヒルズ

 村上は世界のアート界をリードする先頭(ウォーホルなど)に立ち、メインストリームをつくり出したいと 3.11 まで思っていたという。「スーパーフラット」は、その流れの中で考え出された。しかし、その目標に限界を感じて自分の作品を残すことを意識するようになったそうだ。「ウォーホルからゴヤを目指す」と村上は言う。非常にわかりやすい比喩だ。しかも、時代も活躍した地域も全く異なるの芸術家を同時に比較してるのが面白い。日本人で最も成功した現代美術家が、その目標達成が「ムリだとわかった」というのは衝撃的な発言だった。頂上に近づくほど、見える景色が違うのだろう。

 


 以下の質疑応答が印象的だった。


会場からの質問:「なぜ伝統的な日本画のモチーフを使うのか?外国人に売る(輸出する)ためか?」
村上:「答えたくないから答えません」

 

 唯一、良い質問だ!と思えた。それに対する答えが、芸術家だからこそ許される回答だった。建築家だったら言えない回答だろう。質問者が著名人の考え方を名前と共に引用したことが良くなかった気がする。村上に「商売のため日本文化を利用している」と言わせたいような質問だった。それに対して何も言わないことは、それはそれで良かったと思う。

  村上はアニメの背景を描く仕事をしたいために、東京芸大日本画を専攻したと言う。最初のキッカケはどうであれ、日本画が好きでなければ「五百羅漢図」をつくるわけがないし、『芸術新潮』の連載「ニッポン絵合せ」もあれほど熱心にやらなかったはずだ。展覧会を見て、美術史に残る巨匠たちへのオマージュなど村上の日本画への愛を感じられた。

 一方で、世界のアート界と闘うための武器として、日本の伝統文化からチカラを借りるのは、当たり前といえば当たり前だ。最も合理的な手法だろう。話しはそれるが、日本の建築家が日本文化を全く意識することなく現代建築を設計しても、外国人は「日本の空間だ」と思うらしい。建築家の空間体験が無意識レベルまですり込まれているのだろうか。無意識にやろうが、戦略的にやろうが、作品の善し悪しには関係ないのではないか。質問の意図が、「明治時代、外貨を稼ぐために欧米への工芸品を制作・輸出したこと」を想起させる。まさか現代の村上に重なるわけがない。もっとシンプルに、こんな質問をしてみたい。

 

「村上作品からは日本美術に対する愛を感じる。なぜ日本美術を愛するのか?」

 

 

f:id:gesopower:20151103224501j:plain

f:id:gesopower:20151103224542j:plain

f:id:gesopower:20151103224709j:plain

f:id:gesopower:20151103224744j:plain